我是猫经典语录日语版 日语共读

2023-04-04 06:06   geyange.com

我是猫经典语录日语版

輩は猫である

夏目漱石

《我是猫》是日本作家夏目漱石创作的长篇小说,也是其代表作。这部作品写于1904年至1906年9月,1905年1月起在《杜鹃》杂志上连载,不久,编成上、中、下三册出版。

夏目漱石为发泄多年郁愤而写成的长篇小说《我是猫》,淋漓尽致地反映了二十世纪初,日本中小资产阶级的思想和生活,尖锐地揭露和批判了明治“文明开化”的资本主义社会。 这部作品是以一位穷教师家的猫为主人公,以这只被拟人化的猫的视角来观察人类的心理。这是一只善于思索、有见识、富有正义感又具有文人气质、但至死也没有学会捕捉老鼠的猫。

吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。

咱(zá)家是猫。名字嘛……还没有。

どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮(に)て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。

哪里出生?压根儿就搞不清!只恍惚记得好像在一个阴湿的地方咪咪叫。在那儿,咱家第一次看见了人。而且后来听说,他是一名寄人篱下的穷学生,属于人类中最残暴的一伙。相传这名学生常常逮住我们炖肉吃。不过当时,咱家还不懂事。倒也没觉得怎么可怕。只是被他嗖的一下子高高举起,总觉得有点六神无主。

掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後(ご)猫にもだいぶ逢(あ)ったがこんな片輪(かたわ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙(けむり)を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。

咱家在学生的手心稍微稳住神儿,瞧了一眼学生的脸,这大约便是咱家平生第一次和所谓的“人”打个照面了。当时觉得这家伙可真是个怪物,其印象至今也还记忆犹新。单说那张脸,本应用毫毛来妆点,却油光崭亮,活像个茶壶。其后咱家碰上的猫不算少,但是,像他这么不周正的脸,一次也未曾见过。况且,脸心儿鼓得太高,还不时地从一对黑窟窿里咕嘟嘟地喷出烟来。太呛得慌,可真折服了。如今总算明白:原来这是人在吸烟哩。

この書生の掌の裏(うち)でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗(むやみ)に眼が廻る。胸が悪くなる。到底(とうてい)助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。

咱家在这名学生的掌心暂且舒适地趴着。可是,不大工夫,咱家竟以异常的快速旋转起来,弄不清是学生在动,还是咱家自己在动,反正迷糊得要命,直恶心。心想:这下子可完蛋喽!又咕咚一声,咱家被摔得两眼直冒金花。只记得这些。至于后事如何,怎么也想不起来了。

ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋(ぴき)も見えぬ。肝心(かんじん)の母親さえ姿を隠してしまった。その上今(いま)までの所とは違って無暗(むやみ)に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子(ようす)がおかしいと、のそのそ這(は)い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁(わら)の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。

蓦地定睛一看,学生不在,众多的猫哥们儿也一个不见,连咱家的命根子——妈妈也不知去向。并且,这儿和咱家过去呆过的地方不同,贼拉拉地亮,几乎不敢睁眼睛。哎哟哟,一切都那么稀奇古怪。咱家试着慢慢往外爬,浑身疼得厉害,原来咱家被一下子从稻草堆上摔到竹林里了。

望眼欲穿终于等到你!!!

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